関係の「おおやけ性」に対する執着の話

まずこの話の主題はタイトルにある通り、「関係の『おおやけ性』に対する執着の話」だ。

私が強く持っている執着のひとつについての話。

「関係の『おおやけ性』」というのは、すなわちその関係が、一般に認められるものかどうか、ということです。

 

昔、あるwebサービスで、複数の人物(俳優や作家、そのほか色々なジャンルの有名人)の関係性を図に表すものがあって、これがそんなに有名でなくても検索したらページがあった。(思えば何かしらのアルゴリズムが組まれてていくらでも自動生成できるようなものなんだろう)

当時わたしは演劇の畑にいて、多分そういう世界の中の人間関係ってきっとそうなんだけど、共演あるいは同じ公演やイベントに参加してなくても知り合いだったり友達だったりって関係が圧倒的多数なんだ。ワークショップで知り合ったとか、大学が一緒とか打ち上げの飲み会で知ってるとか、友達の友達、とか。知り合ったきっかけの鮮明さが、その後の関係の親密さには関係ないというか、まあそれはどこの人間関係においてもそうだろうけど。

その頃打ち上げで知り合って仲良くなった俳優の友人がいて、その人とは知り合いの知り合いって形のではあるものの、その、webサービス上に上がってくるようなはっきりした関係性はないんだよなってそんなことを考えることがしばしばあった。この先どれほど仲良くなっても、役者とスタッフ、みたいなはっきりとラベル付けされることは後々公演を一緒に作りでもしない限りないんだよなと。

 

とはいえ、芸能人みたいにすべての関係性の履歴が公に詳らかにされてしまうのは超絶しんどいけどな。

 

そののち出来た恋人が、学校が別で、その人の学校のひとに私を紹介してはくれなかったことが、「関係の『おおやけ性』に対する執着」を強くするひとつのきっかけになった。恋人なのに、恋人ヅラできなさというか。二人でいる時はたしかに恋人なんだけど、相手の学校のひとにとってはわたしは架空の存在であるという漠然とした虚しさというか。

 

友達であるということは立派な関係性の一種なんだけど、それにも当然濃淡があると思う、ほぼ知り合いと言って差し支えないくらいの関係の友人もいるし、一生一緒に居られるような関係のひともまた友人なので。

でもこの濃淡というのは極めて個人的で主観的なものなので、「私」と「あなた」が同じだけの感情をお互いに持っているとは限らない…これが結構しんどいなとおもう昨今。

主観性の高い濃淡のなかで、ラベル付けされない関係ってとても信用に足らんなという感情と、それは友達としての関係性の純度が高ければ高いほど付き合いがなくなった瞬間消え去るんだろうなという憶測が、わたしの精神をしばしば脅かす。

せめてラベル付けされていれば他人のなかで忘れられないで済むだろうに、そうでもない関係だったら例えば片方がいなくなってしまったら、それまでの関係も全てなくなってしまうようで、怖いなーと感じる。